STAP細胞をめぐる研究不正の原因を考察した文章を追いかけているうちに、
理論の裏付けになるデータを複数の実験結果から意図的に選び出す行為
が当たり前のように行われているという話を目にした。
計算機工学専攻の僕にはそれが事実なのか分からないけれど、もし科学に携わる立場の人間でさえそうならば、いわゆる普通の人が「科学的に証明されていること」「データで裏付けされたこと」ではなく、「自分が信じたいこと」を信じようとするのはどうしようもないことなのかもしれない。
サイモン・シンの「代替医療のトリック」(文庫版は「代替医療解剖」に改題)を読んだとき、僕はこのような感想をもった。
「なるほど、効果がないだけでなく、ときに健康に悪影響をおよぼすことさえある非科学的な健康法や医療行為を信じる人は確かにいるだろう。しかし、そのような人は科学的な知識や教育が不足していた前時代の遺物であって、21世紀の現代においてはほとんど無視できるだろう」
しかし最近になって、twitter経由でメディアには出てこない生の意見を目にするようになり、どうやら僕の考えは間違いだったと思うようになった。
健康法や医療行為だけでなく、放射性物質の除去方法や有用微生物の活用、歴史認識など様々な領域で、
- 客観的な事実(測定データなど)を見ようとしない、もしくは曲解する、否定する
- 自分とは異なる意見を聞く耳を持たない、一方的に攻撃する
といった人々を目にする。
少なくとも一部には「自分が信じたい真実」を強固に信じる人たちがいるようだ。
「何を信じるか」は憲法十九条で謳われている自由だが、少なくとも予防接種の否定のように社会全体の不利益につながる(伝染病の増加により公衆衛生が悪化する)非科学的な「真実」の広まりは防止しなければならないだろう。
一方で、手っ取り早く人の考え方を変えるのはとても困難だ。
当たり前のようだけれど、科学的知識・論理的思考力を身に付ける教育と、自分とは違う考え方の存在を知るという社会経験の両面から、次世代を担う子どもたちの成長を支援するしかないのだと思う。