2011年6月12日日曜日

非現実的な夢想家として

村上春樹氏が、カタルーニャ国際賞の受賞に際して述べたスピーチを読み、観た。
インターネットとサービスの発達により、遠い異国の地で行われたスピーチを無料かつノーカットで見ることができるということに感謝したい。

複雑な政治情勢の中でメタファーという形でしか語ることができなかったエルサレム賞受賞のスピーチに対して、今回のスピーチには凝ったレトリックはなく、村上氏の思いや立ち位置をシンプルに、そして真摯に世界に向けて発信したように見える。
日本では、もっぱら「原発批判」として取り上げられている本スピーチだが、僕にはそれ以外にも以下のような複数の観点が織り込まれていると感じられた。

  • (世界的に影響力を持つ日本人の代表として)日本の国家が、専門家が、営利企業が、そして国民が、安全対策が不完全な原発を建設することを容認し、結果として国際社会全体へ影響を及ぼす大事故を防ぐことができなかったことに対する率直な反省の弁。
  • 諸外国には、「無常」という言葉によって儚く移ろいゆく世界観を内包した日本人のメンタリティを説明すると同時に、国民に対しては、これまで数多くの自然災害を経験し、そしてそこから立ち直ってきた日本人の力強さを再認識させるメッセージ。
  • 「原発」や「効率」を一つの例とした、「壁と卵」で語られた「システム」と「脆弱な卵」との戦いのモデルケースとしての再現。

村上氏は、 原発の「既成事実」が作られた60年代後半から70年代に青春を生きてきた、そして結果的に原発を受け入れてしまった、ひいてはこの矛盾に溢れた現代に繋がる選択をしてきた世代の人間として、集団的な責任というものを強く感じているように思える。

かつての阪神淡路大震災がそうであったように、この東日本大震災が村上氏というフィルターを通して、5年後あるいは10年後に、「晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔く」その種蒔き歌のように、我々が共有し、お互いを結びつけてくれる物語として立ち上がってくることが、今から楽しみだ。

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