2008年5月29日木曜日

「キー・ポイントは弱さなんだ」 と鼠は言った。


「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
「人はみんな弱い」
「一般論だよ」 と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ」
僕は黙った。
「弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ。まるで壊疽みたいにさ。俺は十代の半ばからずっとそれを感じつづけていたんだよ。だからいつも苛立っていた。自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを本人が感じつづけるというのがどういうことか、君にわかるか?」
僕は毛布にくるまったまま黙っていた。
「たぶん君にはわからないだろうな」 と鼠は続けた。「君にはそういう面はないからね。しかしとにかく、それが弱さなんだ。弱さというのは遺伝病と同じなんだよ。どれだけわかっていも、自分でなおすことはできないんだ。何かの拍子に消えてしまうものでもない。どんどん悪くなっていくだけさ」
「何に対する弱さなんだ?」
「全てだよ。道徳的な弱さ、意識の弱さ、そして存在そのものの弱さ」
僕は笑った。今度はうまく笑うことができた。「だってそんなことを言い出せば弱くない人間なんていないぜ」
「一般論は止そう。さっきも言ったようにさ。もちろん人間はみんな弱さを持っている。しかし本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なものなんだ。たえまなく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない」
僕は黙っていた。


―― 村上春樹 「羊をめぐる冒険」 新潮文庫(旧版) pp.200-201

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