2009年7月1日水曜日

限定された可能性の中で

書店に立ち寄るたびに考えることがある。
そこに並ぶ膨大な数の書籍のうち、僕のささやかな人生を通して手に取ることのできるもののなんと少ないことか。
実際に読むことのできる作品はもとより、その存在を認識できる作品でさえごくわずかでしかない。
そんなとき、僕は自らの人生の可能性がいかに限定されたものであるかを痛切に思い知らされる。

産み落とされた時点ですでに失われていた可能性もあっただろう。
人生の節目節目で、何かを手に入れると同時にいくつもの可能性を捨て去ってきたに違いない。
でも、このかわりばえのしない日々の中でこそ、それら以上に数多くの可能性を失い続けているような気がしてならない。
人生を通じて、僕たちはまるで庭木の選定でもするかのように、自らの可能性を無意識に払い落しながら前に進んでいくしかないのだ。
そして最後には、枝葉ひとつない丸裸の幹だけが残る。

より良く生きる。
人生を豊かにする。
それは具体的にどのような作業なのだろう?
たとえ丸裸になるとしても、生きているうちに少しでも幹を太らせようとすることなのか。
わずかな風で折れそうになっても、少しでも高く背を伸ばそうとすることなのか。

30代。
仕事ではすでに中堅と呼ばれる年代になった今、僕はあまりにも迷いが多い。
どのように生きることが自分の人生と言えるのだろうか。
それとも、生きた痕跡として、影のようなものとしてしか人生というものはとらえることができないものなのだろうか。
限定された可能性の中ですら、人生を選択することはひどく難しい。

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